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【展覧会紹介】コールマイン未来構想~~筑豊の炭坑文化の記憶を紡ぐ①

こんにちは!学芸員の佐々木です。
ようやく朝晩冷え込む秋らしい季節となりましたね。皆様いかがお過ごしでしょうか。

現在、田川市美術館では「コールマイン未来構想」展を開催しています。
毎年11月に田川市で「炭坑節祭り」が行われており、この展示はその時期に合わせたものです。

この地域では、後期旧石器時代から人々の活動が認められますが、石炭が発見されたのは1478年(文明10年)と比較的新しい歴史です。

三井田川鉱業所の設立は、1900年(明治33年)。約100年間のこの産業の歴史を、なぜいまも取り上げるのかと不思議に思われるかもしれません。

「炭鉱は昔のこと」という声も聞きます。しかし、この約100年の歴史を辿ると、掘り下げるべきものはまだまだたくさんあります。
時代や産業に、恩恵を受け、一方で翻弄された人々の思いは、人から人へとつながれてきました。

筑豊の人々や文化をもっと多くの方に知っていただきたい——そんな想いを込めて、この展示の魅力を数回にわたってお伝えしていきたいと思います。

九州の僻地まで足を運ぶのが難しい方にも、この記事を通じて展覧会の様子を感じていただけたら嬉しいです。

オープニングでは、来館者の方が「成金饅頭」を持ってきてくださいました。労働者の方々向けの甘いものが喜ばれた筑豊地域には、有名なお菓子がたくさんあります。

「炭坑文化」って?

まず、「炭坑文化」とは何かについて簡単に説明すると、石炭産業の発展にともなって生まれた文化運動といえるかもしれません。

戦争という時代背景もあり、石炭産業は人々に大きな影響を与えました。
石炭を運ぶために駅ができ、その周りに町ができ、いくつかの町が合併して市が誕生しました。
当時、数々の文化人が田川市を訪れ、娯楽文化も大いに栄えます。

筑豊で最初に炭坑労働者として絵を描き始めたのは井上為次郎です。
彼は、あまりにも過酷な労働環境を後世に伝えたいという思いから描きはじめました。

また、日本で初めて世界記憶遺産に登録された山本作兵衛さんも、炭鉱労働者の生活を次世代に伝えようと多くの記録を残しました。

美術館で収蔵している山本作兵衛さんの4点の作品を展示しています。博物館は600点近く収蔵しています。会期中は博物館とのコラボ企画もしています。
(協力:作兵衛(作たん)事務所 ©Yamamoto Family)

こういった炭鉱労働者の活動を、より広めよう、多くの人に知っていただこうと、「運動」を意識しはじめる人々が登場します。
それは、記録文学作家の上野英信さんでした。

炭坑の「闇」に誘われて

上野英信さんは、本名は上野鋭之進。満州建国大学に進学、学徒招集後、陸軍見習士官となりました。兵務で宇品滞在中に広島で原爆に遭います。
敗戦後、京都大学に通うも、戦争や広島で被爆したことをきっかけに、「闇」に誘われるように近づいていきました。

労働者になり、地下の闇に入ることを決意し、上野英信さんは現在の遠賀郡岡垣町にある海老津炭鉱に入りました。

はじめて炭坑に入った時について上野英信さんは次のように書いています。

みなはうばいあうようにして湯のみにつぎ、目をほそめ唇をならしてのみはじめました。ぼくはもうびっくりしてその様子をみているばかりでしたが、こころのなかでは、まるで山賊のようなこのヤバンなやつらとどうして一緒にやってゆけるだろうと、不安でいっぱいになりました。あすからは、あのはなくえの老人のようにかれらからどなりつけられ、ヤミ焼酎をかいに追いまくられるのかと思うと、かれが帰ってくるまえに、思いきってにげだしてしまえばよかったのにと後悔するのでした。
「おい、あんちゃん、さむそうにふるえてねえで一杯やりな、ぬくもるぜ」と目っかちの男が地下たびのままぼくのまえにとびあがってきて一升ビンをつきだしました。ぼくはおどろいて顔をあげ「いいえ、ぼくは――」と手をふってことわりました。「えんりょするな。ここにきてそんなえんりょなんかしていると、めし一杯くいださんど。どいつもこいつも、あつかましいやつばかりだからな」まるでおこっているような口ぶりでかれはどなりながら、ぼくの手に湯のみをおしつけ、のこりすくなくなった焼酎をついでくれました。ビンをにぎっているかれの右手は、おやゆびと人さしゆびのほかは根もとからきれてありませんでした。なみなみとつぎおえると、かれは「さあやれ!」とうながすような目つきでニヤリと笑いかけました。まっくろによごれた岩乗な大きな顔の、すみきった片目としろい丈夫な歯のかゞやきが、どきりとするほどぼくのこころにひびきました。

上野英信「ふたたびヤマのなかまに」『せんぷりせんじが笑った!』柏林書房、1955年、18-19頁
ひらがなで書かれているのは、炭坑労働者の若者が漢字が読めない人が多かったためです。

この記事を書いている私は筑豊出身ではありませんが、初めてこの地を訪れたとき、ここに書かれている状況に似た体験をしたことを思い出します。
筑豊地域の人々の開放的な性格は、今でも変わらず感じられる気がするのです。

上野さんは、彼らの性格についてこのように書いています。

はたらくなかまたちは、つまりどんな金もちよりも、えらい学者よりも、生きるということのとおとさをしっており、人間というものが美しい大切なものであることをしっているからだということにきづきました。あのふかい愛情も、ゆたかな人間性も、なにものも恐れないあおのおゝしいたたかいの力も、すべてがそこから泉のようにつきることなくわきでるのであることにきづきました。

上野英信「ふたたびヤマのなかまに」『せんぷりせんじが笑った!』柏林書房、1955年、15頁

炭坑に入った上野英信さんは、多くの労働者が文盲であること、そしてそれが資本と権力による意図的な政策によってもたらされたことを知りました。
彼は、労働者の解放運動は識字運動から始めるべきだと述べ、この運動のために奔走します。

労働者たちの興味を引くために、機関誌の表紙には千田梅二さんの版画が使われました。
千田さんの版画は労働者たちの間で人気を集め、その結果、全国機関誌コンクールでも一等を獲得するなど、この試みは大成功を収めました。

会場では千田梅二さん表紙の機関誌も展示しています。

労働環境は過酷で、人間の尊厳すら認められない地下の闇の中で、仲間たちの人情に触れ、生涯筑豊にこだわり、労働者のために奔走し続けた上野英信さん。
そんな彼について、一緒に仕事をしていた千田梅二さんは、次のように書いています。

これは労働のなかから文化を創造しようという意欲を実践したことが共感をよんだのである。人間はどんなに苦しくても生きぬこう、しかも明るく生きぬこう、明るく正しく生きるものを妨げるものとはたたかおう。上野さんの文章は明快で、紙芝居を見るが如く多くの炭鉱の人々を楽しませ、励ましたようである。

千田梅二「英信の贈物—ミレー大画集—」『追悼 上野英信』裏山書房、1989年の火が

労働者の中から文化を生み出そうとした上野英信さんは、先達である炭坑画家・山本作兵衛さんの評価にも尽力しました。
山本作兵衛さんの一周忌を迎える頃、上野英信さんは次のような言葉を残しています。

あれは作兵衛さんが亡くなられてまもなくのこと、あなたと同じように親の代から炭鉱で働いた一人の女人が、こう言って歎きました。
――とうとう無学の灯が消えてしまうたばい、と。
そのひとは深くあなたを慕いながら、一度もあなたに会ったことはありません。そのひとの口からこのような悲哀の言葉をきいて、私は、炭鉱で働いた人間にとって作兵衛さんという存在は、闇路を照らすカンテラの灯であり、いのちの灯であったことを知りました。その灯はなまじっかの教育を受けて眼のくもった人間には、到底見ることのできない灯であります。
[中略]
あなたにとって画業は、真実の意味において労働であったのです。極限にまで高められた純粋な労働であり、硬質な労働であったのです。

「黒十字」『写真万葉録・筑豊』第10巻、上野英信、趙根在監修、葦書房、1986年、191頁

上野英信さんと千田梅二さん、そして山本作兵衛さんとの出会いは、さらに多くの人々を巻き込み、筑豊の文化運動として広がっていきました。当時の人々の繋がりが、現在活躍する人々へも引き継がれています。

上野英信さんの版画《昇坑》1956年
仕事を終え、地下から地上へと戻ってきた父親に駆け寄り、たばこの火をつける子どもたち。地上へ無事に帰ってきた、その安堵と喜びを分かち合う家族の姿を描いた版画です。上野英信さんは、彼らの姿をうらやましく思っていたのだろうと、ご子息の朱さんから伺いました。

(続きます)


~おすすめ書籍のご案内📕~

今回執筆にあたり下記の書籍を参考にしています。
美術館で読める本もありますので、ご興味のある方はぜひご来館ください。

①國盛麻衣佳『炭鉱と美術──旧産炭地における美術活動の変遷』九州大学出版会、2020年
日本の炭坑と美術の関係についてはこちらの本を読むと、全体像が掴めます。

②「黒十字」『写真万葉録・筑豊』第10巻、上野英信、趙根在監修、葦書房、1986年

③小林慎也『追悼 上野英信』上野英信追悼録刊行会、1989年

④『せんぷりせんじが笑った!』
国書データベースで上野英信さんの原稿を見ることができます。

⑤『上野英信-闇の声をきざむ』福岡市文学館、2017年

⑥図録 『文化資源としての炭鉱展 ヤマの美術・写真・グラフィック・映画』目黒区美術館、2009年


参考文献(筑豊・田川デジタルアーカイブでは地域の歴史を知ることができます)